紅の衣を羽織ったは、裾を引きずりながら静かに真夜中の屋敷をうろついていた。
行灯も持たず、月明かりだけが頼りだったが、案外それだけでも充分周りが見える。
時は丑三つ時。
煌々と輝く満月はなんとも美しい。
満月の夜は必ずといっていい程、丑三つ時になると縁側に座っては月を眺める。
いつだったかが衣擦れの音を僅かにたてて歩く様を偶然見た家臣の一人が、月の姫かと勘違いしたという逸話がある程、月夜が似合う美貌。
滅多なことでは屋敷から出ないのだが、その美しい容姿の噂はあっという間に広まり、結婚を申込みに来る貴族たちは少なくない。
けれどは相手がどれ程の名家であっても、全ての結婚を断っていた。
それでもたまにしつこい輩には無理難題を吹っかけて追い返すことがあったので、竹取物語のかぐや姫のモデルは実のところではないのかと噂される程だ。
だが当然はれっきとした地球人だし、はたまた物語のモデルになった記憶も無い。
満月の夜、丑三つ時に月を眺め、貴族達からの誘いを全て断るには、ある理由がある。
「昌浩。」
「こんばんは、姫。」
裏門から屋敷に入って来た馴染みの少年は、が贔屓している少年陰明師だ。
は彼のことを気に入っており、その他の男には目もくれないでいる。
久保田家は、何の因果か稀に妖怪に魅入られやすい女児が産まれる。
そんな女児を妖怪から守ってもらうため、安倍家と旧くから繋がりがある。
は不運なことに、この上ない程妖怪に魅入られやすい女児として誕生した。
最初は安倍晴明が自ら屋敷に月一で結界を張りに来ていたのだが、最近は老体ということもあり、彼の孫である昌浩が来るようになった。
初めはこんな子供で大丈夫かと不安だったが、その実力は確かな物だった。
さすが晴明の孫だと言ったらとてもふて腐れるから、今ではからかうネタになっている。
「姫、いつも言うけど、夜更けだからわざわざ起きてこなくてもいいのに。」
「だって眠れないんだもの。それにもっくんに会いたいし。」
自分ではなくもっくんの名を挙げられ、昌浩は少しばかり不機嫌になる。
の首にまきついて襟巻き代わりになっているもっくんは、そんな昌浩を見てニヤニヤと笑った。
もっくんはこういった昌浩の感情なひどく敏感だ。
「なんだ昌浩、嫉妬か?」
「もっくん煩いよ。」
ぴしゃりと言い付けた後、昌浩はいつものように屋敷に結界を張る作業にうつる。
満月の夜は妖なる力が増える。
妖怪達が活発になるだけでなく、が身の内に秘める妖怪を魅了する力まで強まってしまうので、念のため、妖怪達が一番活発になる丑三つ時に結界を二重に張り直すのだ。
の力を封じ込めることが出来れば一番いいのだが、それすらも叶わぬ力はかなり手を焼く。
どれだけ強い結界を張ったところで、自身から流れ出る力はその結界を内側からじわじわと綻ばせてしまう。
あの晴明がかけた結界であっても一月たつと殆ど効力を無くしていたから、わざわざ月に一度足を運んではこうやって結界を張りなおさなければならない。
昌浩は晴明なら一重で事足りるものを二重に張ることで、一月持ちこたえる結界を作り出している。
こればかりは力の差だからしょうがない。結界を張るために屋敷を一周しに行く昌浩の姿が見えなくなってから、もっくんはふと呟いた。
「なー、たまには素直に可愛がってやれよ。昌浩落ち込んでたぞ。わざわざ夜中に起きるのは昌浩に会いたいからだって言ったら、昌浩のやつ死んで黄泉から戻ってくるくらいよろこぶぞ。」
「何言ってるのよ、死んだら困るから言わない。それに私はもっくんと昌浩の両方に会いたいから起きてるの。昌浩だけを贔屓しているわけじゃないのよ。」
もっくんのことも大好きなんだから、と膝の上で丸くなっているもっくんを撫でる。
けれど、あえて昌浩を焦れさせるような言動をとっている時点で、が自分と昌浩に抱いている感情は根本が違うのでは―――――。
もっくんはそう思ったが、口にはせず心の中にしまい込んだ。
言ったところで、が己の気持ちを否定するのは目に見えているから。
やがて一刻が過ぎただろうか。
屋敷をようやく一週した昌浩が帰ってくると、もっくんは暢気にの膝の上でいびきをかいていた。
人の苦労も知らずにいい気なもんだ。
昌浩が戻ってきたことに気付いたは、もっくんを起こさないように小さな声で「お疲れ様」とねぎらいの言葉をかける。
昌浩はさり気なくの横に座った。
「姫、ごめんね。もっくん重かったでしょ。」
「ううん。大きく見えて結構軽いわ。それに温かいし。」
夜風は体が冷える。
は屋敷を一周してきた昌浩の手をとると、己の手できゅっと包み込んだ。
思ったとおり、冷たくかじかんでいる。
はぁ、と息を吐いて、また包み込んで。
その行為を続けていると、だんだんと昌浩の手はあたたかくなっていった。
暫くされるがままになっていた昌浩だったが、だんだんお互いの手と手が触れ合っていることに恥ずかしくなってくる。
頃合を見計らって手を引き抜くと、手だけではなくて頬までも熱くなっていることを悟られぬように慌てて俯いた。
「もう大丈夫だよ。」
「そう?さすが晴明の孫ね。」
「それは関係ないだろっ!!」
「ふふっ。」
いつもご苦労様、とが小さく指を鳴らすと、家臣が静かに盆の上に茶と茶菓子を持って現れた。
二人の間に盆を置くと、昌浩に深々と頭を下げて去ってゆく。
本当ならもっと盛大におもてなしをするべきなのだが、昌浩がそれをされると気が引けると断ったのだ。
それ以来、仕事の終わりにはこうやってささやかなもてなしがされるようになった。
お茶をすすり、茶菓子を口に放り投げてはと一緒に月を見る。
このときになってようやく仕事が終わったと感じ、昌浩の緊張は解ける。
肩の力を抜いて縁側に寝そべり茶菓子をついばむ姿は、まだまだ自由気ままな子どものようだ。
こうして夜が明けるまで二人は色々なことを話す。
妖怪との戦い、晴明のいじわるっぷり、屋敷での出来事、庭木の模様。
それこそ統一の無い話題ではあったが、一ヶ月にこの日しか出会うことが無い二人にとって、どんなつまらない話題であっても楽しく思えるのだった。
やがて月が沈みゆく反対側の空が、うっすらと白み始める。
日が昇る前には家に帰らねばならない昌浩のために牛車が裏口に用意され、家臣が呼びに来る。
楽しいひと時の終わりに、は小さくため息を一つついた。
「ねぇ昌浩。」
「ん?」
「次、昌浩にあえるのを楽しみにしてるわ。」
もっくんではなく、昌浩に。
自分を名指しされ、昌浩は天にも昇るような気持ちになった。
「じゃあ、また」と、別れの挨拶を簡素に済まして牛車に乗り込む。
高揚して頬が紅に染まる主人の姿に、寝たふりをしながら首に巻きつくもっくんは
(単純なヤツ。)
まだまだ幼い思考回路の少年陰陽師にあきれるのであった。
牛車はゴトゴト揺れながら、朝焼けの中、浮かれる少年を乗せて安倍家に向けて進んでいく。
ユキサ様に無理を言って頂いたもの