慌てて駆け込んだ庵に、優しく出迎えてくれる娘はいなかった。
呼べばすぐ出てきてくれたのに、今は何度呼ぼうとも足音一つしない。
彼女はこの屋敷の中じゃ此処にしかいない、別の部屋に行く事なんてない。あって精々の部屋までだ。
かすかな望みを託して自分の部屋へと向かった。
けれど其処にもいない。
最後に駆け込んだのは師である晴明の許。
この屋敷のことは全て把握している晴明だ、蘭が何処へ行ったのか知らないわけがない。
「師匠!!」
「慌しいぞ、。何事だ」
「…惚けんのも大概にしてもらえます?…蘭は何処や」
御簾の向こうの晴明の表情は読めない。
けれどは睨み続けていた。
「…あの娘は、自ら鬼の下へ向かった」
「!!」
「私に頼みに来たよ。自身の身に潜む力をどうにかしたいと」
「なんで…なんでや!オレに一言も…」
「あの娘はお前を守りたいらしい」
「…!?」
「ただ甘えている自分が許せないとそう言っていた。お前はあの娘の為なら無理をするからな」
「せやけど…それは」
「当然、と思うな。お前が傷付けば悲しむ人間がいるということを忘れるでない。あの娘は身を傷つけてまで守ってくれと頼んだのか?」
「…っ…」
晴明に返す言葉がには見つからない。
だが幾ら決心して戻ったとは言え、鬼の下へ単身乗り込むなど危険すぎる。
けれどどう足掻こうと、には鬼のいる場所は分からないし行く術も無い。
「……いつや…。いつ、蘭は出て行った…」
「一昨日…お前が臥せている時だな」
「…っ…」
は立ち上がると部屋を出て行こうと踵を返す。
「どうするつもりだ?」
「…もうすぐ儀式や。準備とか…色々あるやろ」
「なんだ、てっきりお前のことだから捜しに行くとか言うと思ったぞ」
「そうしたいは山々やけどな…。天真が耐えてんのに…オレが我儘言うわけにいかんやろ」
兄である天真だって本当は心配な筈なのだ。
けれど信じて、今は待っている。
「…オレが弱いから…アカンのや…。オレが…」
ブツブツと呟きながら、は安倍邸を後にした。
夕刻、雨が降り始めた。
牛車に揺られながら外を見ていた永泉はある一点を見て、声を荒げる。
「…停めてください!」
牛車を降り、土手を駆け下りる。
川沿いに佇む人影が見えたからだ。
「殿!」
雨に打たれながら川を見つめるその人はゆっくりと振り返った。
振り向いた顔にいつもの笑顔は無い、むしろ“無”。
「何故このような天気に外に…。兎に角お乗りください」
永泉は持っていた着物をにかけると、牛車に乗せようと手を引いた。
その時、その手の温度の低さに驚いた。
見れば、唇も少し青い。
昨日まで臥せていた人間が、雨の中外にいたのだ。
永泉は足を急がせた。
早く暖めなければと、永泉は仁和寺へとを連れて行った。
湯殿に入れ、濡れた着物を取り替えさせ薬湯を飲ませた。
その間、は一度も口を開かなかった。
「…あの…差し出がましいでしょうが…。一体何があったのでしょうか…?」
は俯いたまま、答えない。
永泉は段々と居た堪れなくなり、その場から一旦席を外そうと考えた。
けれどそれを自身が拒んだ。
「…オレは…どうしたらええんやろう」
初めて聞いた、の弱音。
いつも、他人の負の感情を打ち消してくれる人が初めて見せた弱い部分。
永泉は一瞬思考が止まった。
「蘭が一人で色々抱えとったのにも気付いてやれん。自分の力も満足に扱えん。……オレ駄目駄目や」
「そ、そんなことありません!!…殿はいつも我々を助けてくださるじゃありませんか」
「鬼の所から蘭を救う時も気絶させられ…朱雀が現れた時も制御どころか足止めも出来んかった」
「けれど…殿は…」
どうして上手い言葉が出てこないのだろう、と永泉は己を恨んだ。
こんな時、友雅なら上手くを励ませたかもしれない
泰明なら的確な言葉を出せたかもしれない
どうして自分はそれが出来ないのだ、と。
「…私の知っている殿は…けして諦めない人です」
「…?」
「どんな状況でも最後には必ず立ち上がり、私達に勇気を与えてくださいました。
頼久や天真殿は貴方を本当に信頼しています。昨日もイノリ殿と詩紋殿は貴方の所へ見舞うと自ら申し出ました。
神子や藤姫も、泰明殿や鷹通殿に友雅殿。勿論私も貴方が此処にいてくれて嬉しいです。
それ程皆に慕われている貴方に…なんの力も無いなど私は思いません」
は永泉の言葉をひとつひとつ噛み締める。
これ程までに言われて嬉しくない筈が無い。
けれど、正面きって言われると照れくささの方が勝ってしまう。
少し赤みがかった顔を上げ、永泉に礼を言う。
「……おおきに。……なんか愚痴ってごめんな」
「い、いえ!大したことも言えず…すみません」
「なんで?今滅茶苦茶オレ嬉しい事言われたで?すごいわ、永泉」
「わ、私は……」
今度は永泉の顔が赤くなる。
ようやく笑ったは、自分の頬を叩いた。
「…よっしゃ!気合入ったで!…四神解放も近いんやから、クヨクヨしてる暇なんてあらへん」
「殿……」
その日はそのまま仁和寺に泊まった。
安倍邸に戻らなかったことで、気付けなかった。
―――泰明がその日帰ってこなかったことを